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2005年04月07日
■CHRISTIAN DIOR(ディオールの歴史)
外交官を志して政治学院に学ぶが、在学中になぜか友人と画廊を開設。
ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めるが、30年代の恐慌に見舞われ失職。
その後、友人からデッサンを習っていたら、ロゲール・ピゲに見込まれてモード界へ。
「41歳で出会った運命の人」マルセル・ブサック(繊維業界で成功した大富豪で、コットン王とも呼ばれた)の支援を受け、
パリ・モンテーニュ街30番地にオートクチュールサロンを開店。
1947年春夏コレクションにて「コロールライン」と「エイトライン」を発表。
丸みを帯びた肩に胸、
ウエストは細く絞られ、
スカートは布を贅沢に使い、
ペチコートで膨らませたラインが
踵まで伸びる女性らしさを引き出した華麗なスタイルだった。
「クリスチャン・ディオールは、モード界に革命を巻き起こした」と絶賛した。
3つのアトリエ、90人の従業員、そして130万フランの年商、フランスのオートクチュールの輸出総額の75%を占めるに至った。
そこがニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し「クリスチャン・ディオール」ブランドのナイロンストッキングの製造を許可した。
これが、ブランドによるライセンス生産のはしりといわれる。
オートクチュール、プレタポルテ、アクセサリーを扱う。
クリスチャン ディオール バルファン ニューヨーク社を設立。
パリ本社に、クリスチャン ディオール毛皮部門を設立。
ジグザグライン、パーティカルライン、オーバル、シニュアス、チューリップ、Hライン、Aライン、アローラインと次々に発表し、センセーショナルを起こした。
このシーズンごとに新しいラインを名づけて発表するというのもディオールがはじめたことである。
ディオールは戦後のファッション界が一部のお金持ちのためではなく、
一般大衆の手にゆだねられることをこの時点で理解していたのである。
パリ本社では、1、000人の従業員、29のアトリエ、5つのビルを持つまでになった。
これにより、デザイナーの死後もメゾンは残り、ブランドを引き継ぐというビジネスモデルが成立することとなる。
1997年からはジョン・ガリアーノがデザイナーとして君臨している。
じつは香水を定価で買う時代はとっくに終わっていました。ではブランドメーカーが値引きしているのかというと、そうではありません。並行輸入という形で安く売られている国から仕入れるスキームが確立されているからです。では、どんな相場観なのか見てみましょう。
■HERMES(エルメスの歴史)
1837年にパリのランパール通りに馬具工房を開く。
第2回パリ万博の馬具部門でグランプリを受賞。
そして、店舗をフォーブル・サントノーレ24番地に移転。
それが、今でも多くの女性に愛されている革のバッグやベルトだ。
その後、時計やアクセサリーも展開。
1937年「オムニバス・ゲームと白い貴婦人」という名の第一号スカーフを発表。
その後、香水やプルタポルテにも参入。
食器などのテーブルウエアの分野にも進出。
革新的なコレクションとして、毎シーズン注目を集めるようになる。
じつは香水を定価で買う時代はとっくに終わっていました。ではブランドメーカーが値引きしているのかというと、そうではありません。並行輸入という形で安く売られている国から仕入れるスキームが確立されているからです。では、どんな相場観なのか見てみましょう。
■CHANEL (シャネルの歴史)
1910年、お針子として働いていた彼女が、パリ・カルボン通りに「シャネル・モード」という帽子専門店をオープン。
やがて本格的にオートクチュリエールとしてデビュー。
男性用の下着にしか使われていなかったジャージ素材をドレスやスーツに仕立てたコレクションは、各ファッション誌で絶賛される。
喪服でしかなかった黒を取り入れたり、脚を長く見せるバイカラーシューズ、紳士物であるツイード素材をレディススーツに、
など数々の伝説を作る。
研究室でココがナンバリングされた5番目の実験ボトルを取り上げた時にこの香水が生まれた。
洋服や香水だけでなく、人造宝石アクセサリー、ダイヤモンドハイジュエリーの発表など、幅広く展開。
一旦引退した後は、戦中から戦後の15年間のブランクを経て、71歳にカムバック。(1954年)
アメリカの働く女性達に指示され1955年、アメリカでモード・オスカー賞を受賞。
再びシャネル・スタイルが注目される。
その後、人気が低迷するが、この情況を救ったのがカール・ラガーフェルド。
ココが築き上げたスタイルを守りながら、時代の空気感を取り入れた新しいシャネルを提案。
三度目のシャネルブーム到来してから現在に至るまでココのエスプリが華麗に受け継がれている。
じつは香水を定価で買う時代はとっくに終わっていました。ではブランドメーカーが値引きしているのかというと、そうではありません。並行輸入という形で安く売られている国から仕入れるスキームが確立されているからです。では、どんな相場観なのか見てみましょう。
2005年04月05日
■GUCCI (グッチの歴史)
GUCCIの創業者はグッチオ・グッチ。
1921年、故郷フィレンツェ(イタリア)で革製品の輸入・販売店を開業。フィレンツェ伝統の職人技術による、ハンドメイドの高級革製品はその品質の高さから大好評となり、一躍高級ブランドとしての地位を確立。
1935年、国連による経済制裁で、イタリアは他国との貿易が禁止。皮革の入手が困難となったグッチの経営はたちまち危機へ。在庫していた原皮を極力減らさないように、皮革以外の素材を組み合わせて製品を作ることを考え、生まれたのが、竹と革を組み合わせた「バンブーバッグ」だ。
1938年、GGマークの誕生。フィレンツェでの圧倒的な成功を基に、ローマにも進出。アルドが自社のバッグに自らがデザインを引き、創業者グッチオ・グッチのイニシャルのGをふたつ組み合わせて発明したのだ。
1950年代は、ストライプ・ウエビングや、メタルビット付きモカシンシューズ等が大ヒット。
1953年、グッチオ・グッチが死去。グッチはその息子や孫に受け継がれ、GUCCIニューヨーク進出。『世界的な高級ブランド』となった。
『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘップバーンや、アメリカの大女優でモナコ王妃となったグレース・ケリー達に愛用され、GUCCIはシックなハリウッドスタイルの代名詞になる。
また、故ジョン・F・ケネディ大統領夫人がGUCCIのショルダーバッグを愛用、そのバッグは1999年に再登場し「ジャッキーバッグ」などの名前で知られており、クラシカルでモダンな定番アイテムとして人気が再燃している。
1970年代、は香港や東京といったアジアへ進出。
しかし、この頃からGUCCI内部では経営的な内部紛争が絶えず、2代目アルド・グッチのやり方を快く思わない者も出現。これが実は後のGUCCIに大きなスキャンダルを起こし、GUCCIが深刻な経営の危機に陥る原因へ。
1980年代、今のGUCCIからは考えられない事だが、実はこの時期GUCCIは深刻な経営の危機に陥いる。血族間での覇権争いによるスキャンダルや不況のあおり、またGGプリントのバッグが塩化ビニールによって大量生産され、希少価値が薄れ、GUCCIのブランドイメージは著しく低下した。
1989年、ドーンメロー女史が抜本的な企業改革に着手。市場に溢れ過ぎてしまった商品から種類を絞り、伝統的なバッグに現代的な味付けをして発表すると、世界的な話題になり、GUCCIには再び経営改善の兆しが現れる。
1994年、トム・フォードがGUCCIを再び快進撃させる。新生GUCCIの誕生です。彼は95年VH-1(VH-1 Fashion and Music Awards)の数々の賞を獲得し、世界で最も注目されるデザイナーとして活躍。GUCCIは倒産の危機から世界最高の人気を誇るブランドとしての復活を遂げる。
じつは香水を定価で買う時代はとっくに終わっていました。ではブランドメーカーが値引きしているのかというと、そうではありません。並行輸入という形で安く売られている国から仕入れるスキームが確立されているからです。では、どんな相場観なのか見てみましょう。
2005年04月02日
■BVLGARI (ブルガリの歴史)
じつは香水を定価で買う時代はとっくに終わっていました。ではブランドメーカーが値引きしているのかというと、そうではありません。並行輸入という形で安く売られている国から仕入れるスキームが確立されているからです。では、どんな相場観なのか見てみましょう。

